福岡県で保育士の肱岡綾音さんが、2016年10月22日に自室前の通路で、冨士田清治容疑者に刃物で襲われ亡くなった。
冨士田容疑者と肱岡綾音さんに面識はなく、一方的につけ狙っていたとみられる。
冨士田清治は12年前にも同様の事件を起こしており、今回の事件は仮釈放中の出来事だった。
また起きてしまった「再犯者」の事件。
加害者を守る権利は、あまりにも行き過ぎてはいないだろうか。
冨士田清治の12年前の事件、なぜネットから削除?
冨士田清治容疑者は12年前の2004年にも、福岡県早良区で強盗事件を起こしていた。
窃盗目的でマンションに侵入し、住人の女性を刃物で襲っている。
女性は重傷を負い、この事件で冨士田清治は逮捕されることとなった。
今回の事件は、この事件から仮釈放されている間に起こった出来事だ。
この12年前の事件については、ニュースなどでは軽く報道されているが、詳しい事は触れていない。
ネットで検索しても全く情報は出てこず、詳細については分からないままとなっている。
2004年と言えば、すでにネットが登場し記事が出てきてもおかしくない年代だ。
しかしそれが検索しても、全く事件の内容が出てこない。
なぜなのだろうか?
ここで考えられるのは、「Googleへの検索結果削除命令」だ。
2014年10月9日、東京地方裁判所からGoogleに対し、検索結果の一部を削除するよう命じる仮処分決定が下された。
ある日本人の男性が、グーグルで自分の名前を検索すると、犯罪行為にかかわっているかのような検索結果が表示されるため、「人格権の侵害」としてGoogleに削除を求めたものだ。
Googleは、「ウェブサイトの管理者」に削除を求めるべきとして、削除を拒否していたが、東京地方裁判所は、
「素行が著しく不適切な人物との印象を与える」
「表題と記述の一部自体が、男性の人格権を侵害している」
とし男性側の請求を認め、Googleに検索結果の削除を行うよう命じた。
その結果、検索結果の一部が削除されることとなった。
→ グーグルに検索結果削除命令 東京地裁「人格権を侵害」 :日本経済新聞
そしてこの事例をきっかけに、裁判所から検索結果の削除を求める事例が相次いでいる。
大抵は事件を起こした男性側からの主張で、
「事件を反省して新生活を送っているのに、人格権(更生を妨げられない権利)が侵害されている」
としたものだ。
裁判所はこれについて、
「逮捕歴を公表されないことが、社会の一員として復帰して平穏な生活を送り続けるために重要」
「平穏な社会生活が阻害される恐れがある」
などとし、検索結果を削除するよう判決を下している。
今回の冨士田清治容疑者の12年前の事件についても、検索結果からの削除が適用されているのかもしれない。
確定とはいいがたいが、その可能性は高いだろう。
確かにネットの検索結果については、過去に事件を起こした人にとって「削除したいもの」であるのは分かる。
またこれが削除されたからと言って、公共の利益が侵害されるかと言うとそうでもないだろう。
不利益をかぶるのは、事件を起こした本人だけで、他の人には何の関係もない。
そのため「検索結果の削除」については、筆者もある程度は賛成だ。
しかしこれらは、「加害者を守りすぎる風潮」につながっているような気がしてならない。
言い方は悪いがネットの検索結果の削除も、「社会生活に復帰するため」だと本当に考えているんだろうか?
これから社会に復帰して貢献するためでなく、ただ自分を守りたいためなんじゃないだろうか。
被害者へこんな事をしてしまったと言う、反省の気持ちを忘れて、自分の事しか考えていないんじゃないだろうか?
はっきり言って事件を起こすような人は、自分の利益や欲求を満たすために、他人の生活を侵害する人たちだ。
他人への迷惑よりも自分のわがままを優先した結果だが、その性格は簡単に治るようなものではない。
そのわがままが正当化された理屈に変わり、それがまかり通っているのではないだろうか?
冨士田清治容疑者は過去に重大な事件を起こしたにもかかわらず、10年ちょっとで仮釈放され、そして今回の事件を起こしている。
犯罪者の再犯率は4割を超えていると言うデータがあるが、これはあまりにも加害者に対する待遇が甘いとしか言いようがない。
再犯に巻き込まれる人たちの事を、
・加害者が更生するため仕方ない犠牲
として割り切っていいんだろうか。
一度罪を犯した人は、もっと厳しい処罰が必要だ。
そう簡単に社会に返すべきではないか、再犯を犯した人物だけではなく、その構成を担当した人にも、何かしらのペナルティがかかるようにしてもらいたいものだ。
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